昭和47年09月14日 朝の御理解



 御理解 第29節
 「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」

 合楽の信心、合楽でおかげを頂いておる人達の信心生活。どんなに、ひいき目に見ましても、桜の花の信心というのが強い。又は、私を初め、私の信心に、続いて下さる方達の信心性格を見ると、やはり桜の花的な感じが強い。桜の花の信心が悪いという事ではない。それは、桜の花のような信心が、それこそ、パーッと、心も浮き浮きするような、桜の花の満開という時にはね、そんな気分がするもんです。本当に、花に浮かれるような感じが致します。ただ、そこんところが欠点なんです。
 桜の花の咲いているような、華やかな、賑やかな、そういうおかげを頂くという事は、素晴らしい事ですし、誰しもが、それを願っておる、求めておる訳ですよね。言うなら、地味なおかげよりも、派手なおかげの方がいいです。ですから、それは大変難しい事なんですけれども。地味な信心、梅の花のような信心をさせて頂いて、そして、桜の花の咲くようなおかげを頂いたら、これが、一番理想的なんです。
 だから、私共は、ここのところに、信心の理想を置いておるのです、合楽は。ですけれども、やはり、磨いても磨いても身が鉄なればであって、時々は、浮気の錆が出るという。歌の文句じゃないけれども、磨く事に磨く事に、一生懸命努めて、それこそ、しみじみとした信心をさせて頂いておるのだけれども。時々、浮わついたと言うかね。いわゆる、桜の花の下で、もう誰しもが浮き浮きとした心が起きてくるような、心の状態、信心の状態ですね。が、その様になってくる事があるのです。
 よっぽどこの辺のところに、一つのブレーキをかけておくという事にならなければね。「梅の香りを桜に持たせ、枝垂れ柳に咲かせたい。」これは私の願いをそのまま、私は表現した歌だと思うですね。ですからここのところに本当に、自分の信心の尺度を当てながら、桜の花的な信心が強すぎらんように、みんなこの三つの調子が揃うた言うなら、素直さと、梅の花の辛抱強さとそして潔よい桜の花の信心。又は華やかな桜の花の信心。そういうような信心を、目指させて頂いておるのですけれども。
 根が桜の花的なものを持っておりますから、何かの時にそれが出てくるんですね。私今朝御神前に出て、御祈念中に頂きました事が、テレビのコマーシャルに洗剤のコマーシャルを、確か映画女優さんと思うのですけれども、可愛らしい女優さんがやってるのがあります。ワイシャツを手に持ってそれこそ踊りの調子です。そしてこうやるとがあります。あの場面を頂くのです。
 私はあれを見るたんびにまぁ何と調子のよか事じゃろうかと。例えば洗剤一つ取るでも、洗濯物いっちょ取るでも、踊るようにして取ってる訳ですね。そりゃもうリズミカルと言えばリズミカルです。けれどもあんまり調子が良過ぎるもんですから、軽く見えて嫌だなぁ下品な宣伝だなぁと、私は何時も思いよるんです。皆さんも御覧になってるおられると思うのですけどね。余りに調子が良過ぎる訳ですね。ですから返ってそこに軽々しいもの、見とってから品がないなぁと思うんですね。
 私はこれを頂いて成程、合楽の信心には、こういう調子の良過ぎるところがあるなぁと思うてです。今日は、教典を開かせてもらいましたら、この二十九節なんです。合楽の場合はです。それは、調子のよか事、調子のよか事ですね。神様が調子に乗せとるごたる感じのおかげを頂く訳です。例えば昨日の十三日会に、私が皆さんにも聞いて頂きました。若先生の髭の問題なんかがそうです。私は髭を立てるちいうのが一番嫌いなんです。初めの間は私は不精髭が生えとるかと思いよったら。
 きちっとカミソリ当ててあってから、こう言う様なあんな髭が流行りよるとかも知れません。立派な髭になっとりますから。もう本当にこの人ばかりは、親の一番好かん事ばすると。こう思う訳ですけれども神様はあれでより深い信心を頂こうとしておるのだという意味の事を頂いたです。私は成程髭を立てるてんなんてんちいう事は一番嫌いです。それを若先生は平気で髭を立てておる。
 そこで私が思う事は親の一番嫌いな事をするなぁと。と言うてお前はどうして髭を立ててるかとは、私のこれは信心の流儀ですから、言いません。いけないと思うところは、神様にお願いをさせて貰う。丁度、あの海老です。川海老が、こうやって、ゴソゴソ這ってるところ頂くんです。長い髭のようなのがありましょう。あれは前にどういう危険物があっても、あれでパッとこう感じる訳ですね。
 ですから海老なんかを取る時には、前の方から網を出しても、絶対取れませんよ。網の側に来たというので、この髭のようなので感じる訳ですね危険を。ですから海老を取る時には、必ず尻尾の方へ、こうやって海老掬いを置いとかにゃ。私段子供の時によく川海老を取りに行きました。尻の方に置いとかにゃいかん。そして前の方にちょっとこう何かを当つるとパーッと後へ飛ぶんです。だから後の方から掬う訳ですね。だからそれを逆にやる訳です。若先生が髭の場合でもそうです。
 親先生が髭を立てちゃいかんとか、髭は好かんと言うけれども、神様が好かんとか好きとかち言いなさるはずはなか。髭立てとったっちゃ、おかげ頂けるはずだと。けれども、親があれ程言うのじゃから、もし自分が髭でも立ててお気付けを頂くごとあるなら髭も落とそうといった様なものではない。そこにです一段信心を深めていこう。言わば追求心が、あの髭になっておったような意味の事を頂くのですから、本当言うたら私はお礼を言わにゃいけん。追求してやまない。
 信心を本当に極めて行きたいという、願いがあるからこそ、御結界でアグラをかいてもみたりする。やるんですこの人は平気でやるんです。足が悪いか何かなら仕方がない。それでも、それはねお粗末御無礼と思うてしよるとじゃない。神様はこれを咎めなさるはずはない。言うなら神様を自分の信心を確かめたり、神様を試したりといったような中から、又違った信心を身に付けていこうという、一つの精進の姿なのです。髭もやはりそれなんです。という事は、親として、お礼を申し上げなければならん。
 親が言う通りして、親だけのものしか出来んと言うよりも、親がしきらなかった事を平気でやって、信心が一段と大きゅうなって行くならば、これは有難い事なんですから。そこで、神様にお礼を申させて頂いておりましたら、夕方はちゃんともう髭を落としてきておったという話をしました。だからお互いがね例えば息子なら息子が言う事を聞かんと。どうした言うこと聞かん奴じゃろうかと、例えば思うのが普通。そう思うとったらいつ迄経っても言うことは聞かん。
 そしてそこでお前はどうして言うことを聞かんかと言うと、余計でん言うことを聞かん。本当の事は神様にお礼を申し上げねばならない事に、お礼を申し上げる事に気付かせて頂いたら。もうそれは親の好かん私の一番好かん、髭を立てるといったような事を、パッと次にはもう改めておる。それは実に見事な事です。私の心の動きというものがそういうように、おかげが打てば響くように表れてくる。
 そういうおかげなんかは、丁度洗剤の宣伝じゃないけれども、私の話を皆さん聞きよんなさると、余りに調子が良過ぎるところが沢山あるでしょうが。それこそ置いたものを取る様に。例えば昨日の十三日会なら十三日会、午前中の御用をされる時には曇りびより、お話が始まると、お湿りが始まる。それは一日中がです。だから私は昨日はそういう一つのリズムに乗った生き方というものを身につけるという事は、大変素晴らしい事です。また置いたものを取るほどしの、これは形の事ではないですよ。
 心の上にもおかげの頂けていくという事は、素晴らしい事なのですけれどもです。こちらの心の調子一つで、そういう神様の動いて下さるとですね。洗剤の宣伝じゃないけれども、余りに調子がよすぎて、軽く見えるような感じ。私の例えばおかげ話というものがです。皆が聞いておって、ほんなこつじゃあるじゃろうかと。合楽でのおかげは、真実性を欠ぐほどしのおかげだと、それを言っております。だから真実性を欠ぐほどしの調子のよいおかげというものがです。
 それを本当じゃろうかと、相手が思うだけでもです。やはりこれは私の信心を軽く見られるなら良いけれども、神様を軽く見る事になる。神様ちゃ馬鹿んごたる人じゃと、もうこちらの心に返って神様を調子に乗せておる。まあ乗せられる神様も神様なら、乗せる方の人間も、人間というような感じがする訳ですよね。今日私は改めてここのところをです。余りに調子のよいおかげを受けるという事は、神様迄も軽々しゅうするという事なんです。と言うてそういうおかげを、実は誰でも受けたいのである。
 だからそのおかげをです。じっと梅の花の信心で自分の心の底に頂いて。有難いというそのものが何とはなしに、ふんわりとでも申しましょうか、例えば梅の花の咲く前の、あの香りと言うですかね。ふくいくとした香りが、辺りに漂うようなです。なんとはなしにです。素晴らしいなぁと。ところが合楽の信心は、もう香りではなくて余りに、おかげが露骨に出ておりますもんですから、もう香りどころか臭いになって、それこそプンプンするような、信心の臭いがプンプンする。
 だから私は先日も桜井先生に話した事でしたけれども。昨日もそうでした。ある問題で教会あちらを、行ったり来たりされる。仕事の事やら何やらでされるのに、もう本当にこれが桜井家のめぐりじゃろうかと、そこに思わなきゃおられんように、行きがけにも蛇が出て来たがどこどこでも蛇がこう出て来て。また例えば雨具を見たとか、そこにそれはもう本当にそげなこつあな、お届けしなさらんで自分の心の中に頂いときゃよかじゃんのと私が言う位に、神様がそこに働いてござる。
 そこにもの言うて聞かして下さっておるような体験を、日々頂いておられる訳ですね。だからそれを話にするとです。神様が軽々しゅう確かになるです。佐田さんの奥さんなんかがそうですね。それは恐れ入ってしまいます。もう本当に恐れ入るほどしに神様の働きを、そこに感じておられる事を話されますとです。その話がもう実に軽々しくなるんです。神様のお働きの素晴らしい事。これを実感していけばいいのです。私は今日改めてそれを思いました。
 私共の上に表れておるおかげというものがです、形の上だけではない。例えばそういう、リズミカルな生き方の出来れる信心を、体得するという事は、素晴らしいけれども、それを話に表現すると軽々しゅうなる。あなたが軽々しくなる分はよかけれども、私共が頂いておる、神様そのもの迄軽々しく見えてくるようになる。言うならばどうした馬鹿じゃろうか、あげな事まで、有難い有難いと言うてといったような風にしか、相手に聞こえなくなってくる。
 しかしこれは皆さん体得はしなければいかんのです。神様がいつも身近に働いてござる事を、そこに実感するのですから。また事実そうです。この神様は本当にこちらの信心の調子が出て来たら、その調子に確かに乗って下さるです。だからそういうところをですね。私共はそういうところだけが、素晴らしい素晴らしいというような。だから合楽の話を、他所の者にしたっちゃ分からんと言った様な事になりかねない訳です。
 合楽の信心教えを受けておる者は、それがよく分かるのだけれども人に話すとほんなこつじゃあるじゃろうか、と思わせるようなおかげ。又は神様を返って軽うするような感じのする信心。同時にもう一つの桜の花的であるという事はです。おかげを落としましてもですね。それは、上っ調子になると申しましょうか、調子が、余りによいもんですから、調子に乗り過ぎて、おかげを落とすという事がある。調子に乗る事は素晴らしいのです。だから、今日は皆さん調子に乗る事は素晴らしいのですよ。
 けれども乗り過ぎるところが桜の花の臭いが、プンプンするところであって、鼻持ちならない。聞いておってほんなもんじゃろうかというようなものを相手に感じさせる。そげなこつ迄、有難い有難いと言うてと言うて、神様を軽う感じさせるような事になってきてはです。私が洗剤のコマーシャルを見せて頂くたんびに、何ちゅう調子のよかこつじゃろうか。けれどもあんまり調子のよすぎるとは、ちょっと軽々しいなと思うようなものを、合楽の信心にお互いが感じ、そして気付かせて頂いて。
 そういう調子に乗って行くところのおかげは頂かせてもろうて、調子に乗り過ぎてはならないというところをです。ブレーキをかけて行かなければならんという事を、今日皆さんに聞いて頂いてる訳です。私は改めて気付かせて頂きました。そこで梅の花の信心が、濃厚に出てくる事になる訳なんです。本当に余りに素晴らしい、神様の働きの間違いなさ、一分一厘の間違いなさ。これは合楽の皆さんが毎日使っておる言葉です。合楽で本当に信心頂いておる方達は。けれどもそれを言葉に出すとです軽くなるです。
 そういう働きを、信心も出来ん私共に、下さってあるという事の素晴らしさ。よく前を通っておる、自動車のナンバーならナンバーから、ハッと自分が頂かなければならない事を気付いたとか。又それについて行ったら、こうだとかというような体験を、皆さんが持っておられますでしょう。いいですそれは素晴らしい事なんです。けれどもそれをね話しちゃならんというのでなくて、それを話す雰囲気がね。もうちょいと神様のお働きちゃ恐れ入ってしまう。これが軽うなっとるです。
 そして聞きよる者は合楽の人なら、本当に素晴らしかのぅと、言いながらもです。本当に神様の素晴らしいところには、触れきらずに、ただ形に現れておるところだけを、本当に素晴らしか、それこそ浮いた浮いたといったような感じが出てくる訳です。これは、本当に、合楽の方達の場合は、そこの調子を体得する事の信心を、頂かなければならないけれども。それが過ぎて神様を例えば合楽の信心を、軽い信心にしてしまうような事であっては、あいすまん訳ですね。
 そして調子に乗り過ぎておかげを落とすと致しましょうか。そすと合楽の方達は、スパーッとその辺から、改めた信心をしますね。私の信心を頂いておる人達は皆そうです。御無礼が出来た。例えばお気付けに合って、カチッと頭叩かれた。「あ痛!」と言うまでに「すいません!」と言うて、すいませんと言うお詫びの印に、今迄出来なかった信心が、サーッと出来るような信心態度を、皆さんが示されます。私もそうでした。現在でもそうかもしれません、内容的には。
 私は梅の花の信心とはです。昨日の四国の川上さんの、あの話じゃないけれど。おかげを頂いておる。もう本当に神様の偉大なお働きに恐れ入ってしまう。そのおかげを感ずかせて頂いたらです。気付かせて頂いたらお礼の印に、修行でもせにゃおられんと言うて、人の悪口は決して言わん。人の足ども取るような事は決して致しませんといったような修行を思い立たせてもらいます。神様に誓わせてもらいますと言うておる。
 お詫びの印に、日頃出来ない信心をするという事も、決してお互い生身を持っておるから、どういうお粗末御無礼が出来るやら分かりません。そこでお気付けでも頂いたら、スパッと、普通出来ない信心修行でもさせて頂いて、そこのところに、きちっとした答を引いたり足したり、掛けたり割ったりというような風にです。正確な答を、そこに出して行かなければ、先に進まれんという事は、素晴らしい事なんですけれども。
 そんなら、梅の花の信心で行くならです。失敗をして、お詫びの印に、修行するじゃなくて。おかげを頂いておる、そのおかげを頂いておる、そのおかげに対してです。改まりもする、修行もするという行き方こそが、私は、梅の花の信心だと思うんです。だからそれこそ、「梅の香りを桜に持たせ、枝垂れ柳に咲かせたい。」そういう内容と言うか、それぞれの性情というものがです。もう一つになって、初めて私が言うところの理想郷。桜の花のようなパーッとしたおかげも頂きたい。
 そして、そういうおかげを頂き続けたい。梅の花の信心によって。その為には素直な素直な、柳のような信心を、いよいよしなければならないという訳ですけれども。それが理想ではありますけれども、何と言うても、これは合楽の信心個性と言うか、桜の花が勝っておる。その桜の花の信心が勝っておるところにです。調子が出てくると、調子に乗るだけならよいけれども、調子に乗り過ぎるところが出来てくるという事をです。私今日改めて、気付かせて頂いた。
 これはね、大坪さんの信心な、ほんなこつじゃろうかと。白ごと半分のごたる感じがする訳です、おかげを頂いた話をすると。今言う、若先生と私の話でもそうでしょうが。それは偶然じゃろうとか、腑がよかったいとか、ほんなこつじゃあるじゃろうかというような感じを、与えるほどしのおかげを受けるという事は、素晴らしい事。それを、梅の花の信心で、きちっとこう、絞っていくというような行き方が、欠げておるという事。皆さんも、一つ、お互いの胸に手を置いてごらんなさい。
 本当に成程それは本当にそうですよ。ここで佐田さんとか野口つぁん辺りのおかげ話を聞くならもうそれは本当に素晴らしかです。けれども余りにも調子がよすぎるです。嘘じゃないですから調子のよすぎるとが、少し乗り過ぎる感じがあるところに、重い神様のおかげをです。軽ういような感じにしてしまう訳です。それでは神様に対してあいすまん事にもなります。梅の花は永う苦労しておる苦労しておるから永う散らん。だから私は本当に梅の花の信心だけでは、とても私共では遣り切れないという感じがします。
 けれども私共の信心がですおかげには、桜の花の信心を表わしながら、信心は梅の花の信心、柳の信心をさせて頂いてです。昨日も上野先生と話した事でしたけれどもね。どうも、私共が信心は、臭いが強すぎる。けれども、ここんところがやっぱり通るところは一遍通らなければ。佐田さんとか、野口つぁん辺りのおかげのところも一遍通らなければいけんです。これは野口つぁん佐田さんだけじゃない。もう合楽全部の人の今通っておるところは絶対通らなければならない。
 しかも本当にそげなおかげが頂かれるなら、誰でも求めておる事です、願っておる事です。だからそういうおかげを頂き続けながらです。梅の花の信心、それこそ臭いではなくてパーッとこう、ほのかに香ってくるといったような信心。でないとです本当の結実にならない。梅の花が咲いた鶯が来て止まった。ホーホケキョのさえずりを聞かせて頂くほどしのおかげから、梅の実になった。その梅の実が梅干しになったというようにです。もう絶対、御徳になるという信心。
 桜の花の信心が、御徳にならん訳ではない。けれども桜の花の信心は散りやすい。折角の信心が散ったらもうこれは、おかげにもならなければ、徳にも勿論なりません。ですから、どうでも欠げておるものそれを私共は本気で、欠げておる事を悟らせてもろうて、今日の御理解を頂いて改めてですね。日々が調子のよいおかげを頂いておるです、日常生活の上に。ですからそれが上ついたもの人に聞かせほうそげなこつのと、ちょいと不思議な事じゃあるのと、言うたり言わせたりする位のもんじゃなくて。
 ちょいと信心ちゃ有難い事のと言わせれる様な、思わせるような信心を頂きたい。どうしてやろかと思いよったらあなた、金光様の信心しなさるけんと、後からほのかに感じさせれるような分からせれるような、信心の内容を頂きたい。そういう信心を私は梅の花の信心だと思う。同じ修行でもお詫びの為にする修行ではなくて、お礼の為にさせて頂く様な信心を、今日は梅の花の信心という風に聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。